ESSAY
言ってはいけない?
日々の生活のなかで
ちょっとした疑問とか、ふと感じた素朴な気持ちを口にしたい…
そんなときにツイッター(X)はちょうど良い。
対面で話せないならネットでも言うべきでない、という人もいるけれど
人に喋ったところで
『だから何?』『それがどうしたの?』『で、オチは?』『何が言いたいの?』
言いたい事の内容も気持ちも1ミリも伝わらなかったり、
下手すると、SNSでいうところの「クソリプ」による「炎上」の如く、
対面でも一斉に集中口撃されることだってある。
SNSだけの話ではないのだ。
些細な、何の面白みもない話、
どうしようもない、やりどころのない感情
ふとした疑問、素朴な感情
そんな話を親切に聞いてくれる人ばかりでないことは重々承知。
相手が話したいこと、相手の負担にならない話題を優先するよう気をつける。
でもね、押し殺した自分の素朴な気持ちや疑問を外に出す場所があったっていいじゃないか、と思うの。
誰も見て(聞いて)いなくても、つぶやくことぐらい、構わないじゃない。
素朴な感情も疑問に思ったことも
空気(多数派?)を優先して何も言えないような空気になるの、怖いものがある。
元々喋るの苦手だけど、
それ以上に、自分は思ったことを何も喋ってはいけない
と思ってしまう癖があるから余計に気になるのかな…
素朴な感情や疑問を言う、言える場があれば
「全体主義」に陥らず
「いじめ」のような、集団が一斉に悪い方へ流れていきそうなとき、小さな抵抗になる。
「裸の王様」の子供のような素朴さを大事にしたい。
ただ心配なだけ
世界で色々と新しい情報やデータが明るみになっていく中で、
その事実から目をそらし続けていて本当に大丈夫なんだろうか?
冷静に考えてほしいけど、冷静に考えた上での判断が違うだけなのかもしれない。
先のことが心配で、伝えたいことがあるけれど
果たして、伝えることが本当に相手のためになるのか、分からない。
見たくもない、知りたくもない、考えたくもない話かもしれない。
自分が絶対に正しいとは言えないし、うまく説明もできない。
でも、このままで大丈夫なんだろうか?
目を背けたくても、直に向き合わざるを得ない事態になっていくかもしれない。
この秋冬が不安になる。大丈夫であってほしい。
ただ心配なだけ。
アナログな手触り
デジタルでもアナログな手触り(印象)のあるものは落ち着く。
今月からこっそり始めてみた、ちょっと懐かしい日記機能。
毎月1回は更新できれば良いなぁ。
おそらく、たいしたことは書かない。
ふと思ったことや考えたことが中心になる。
文章も内容も硬軟ごちゃ混ぜになるかもしれない。
兎に角、「疲れない」「自然体」「ゆっくり、じっくり、丁寧に」を大事にしたい。
拡散力やスピードに、或いは、つながりすぎて疲れたら、
ホームページやブログのような、アナログなデジタルがちょうど良い。
他人と比較して落ち込むこともないし、自分のペースが維持しやすい。
懐かしの日記機能から、
自分自身のペースや感覚を大事にした方が元気になれることに気が付いた。